マリッジ 誉田龍一

「一年、時間を止めるようなものだぞ」
 上司はそう言って、桜子の顔をねめつけた。
「休職してる間にどんどん他の社員は実績を上げていく。一年経って戻った時には……」
「よろしくお願いします」
 桜子は言葉をさえぎるようにして一礼した。上司は無精髭を撫でながら、桜子の提出した書類に不快そうに目をやった。
「なんだ、このマリッジっていう理由は?」
「そのままです」
「結婚するのか」
「いいえ、マリッジです」
「何だそりゃ?」
「幸せになる方法です」
 桜子はそれだけ言うと、さっさと上司の前から自分のデスクに戻った。片付けも、引き継ぎも終わっている。次に来るとしても一年後だ。来るかどうかは分からないが。桜子は私物を詰めたキャスターバッグの取っ手を持った。
 疲れていた。仕事でも、プライベートでも。
 社会人になって五年目の二十七歳、これくらいのOLには珍しいことでもないらしい。とはいえ、当人にとってはかなりきついことだ。仕事も慣れてきたのはいいが特にやり甲斐のあることをしてるわけでもなく、友人と遊びに行くのも、メンバーも場所も固定化してきている。
 そしてもうそろそろと思っていたマリッジ、つまり結婚も、相手すら見えない。
 SNSも始めた当初は面白かった。自分が何か発信したことに結構反応がある。が、やっぱり疲れてきた。風邪気味と言えば、すぐに何々と何々をお湯に混ぜて飲み、明日の朝は何を食べて、昼はどうしろとか言ってくれるのは善意からだろうが、正直、そこまで言われてもなと感じる自分がいた。そして相手はそんなこちらの思いも知らず、わかりきったつまらない正論を長々と書いている。
 もう限界と思っていた矢先、法事で実家のさくら市に帰省した折、幸運にもニッカウヰスキー栃木工場を見学できた。一般公開はしていないと言われていたのを、ウィスキー好きのわたしが以前から友人に頼み込んでいたのが実現したのだ。
 外に積まれた樽を見た後、樽を火で蘇らせる作業を見学、そして最後に貯蔵庫に入った。その瞬間、ウィスキーと樽の木の混じった上品な香りが漂ってくる。天まで届くかという高い天井の建物内では、約三万の樽が、すべてコンピュータ制御の下、静かにそれぞれの位置に置かれていた。
「他の工場から運ばれてきたウィスキーをここでブレンドして再貯蔵しています。マリッジって言うんです」
「マリッジ?」
 説明する社員に思わず、桜子は聞き返していた。
「ええ、マリッジ、熟成させる為の再貯蔵のことです」
「どれくらいやるんですか」
「数ヶ月のものもあれば、半年から一年のものまであります」
「ああ、そんなに」
 桜子は頷いていた。
「こんなに静かだと、貯蔵庫の時間が止まっているように思えるでしょ」
 説明員は微笑んだ。
「でも、違うんです。樽の中では確実に熟成が進んでいるんです。静かに、でも確実に少しずつ……時間は止まってません」
 その時、桜子の頭にぱっと閃いたものがあった。
 ――わたしに必要なのは、こっちのマリッジなのかもしれない。
 桜子はもう少しで叫びそうになった。
 静かに、でも、確実に自分を見つめ直す時間が欲しい。実家でマリッジするか。美しいわが市、さくら市で。
 そう思った桜子は、すぐに休職手続きを取っていた。
「その間も、時間はちゃんと動いていく。幸せに向かって」
 桜子はそうつぶやくと、オフィスの玄関口を出てにっこりした。