天使の相(あい)合(あい) 神家正成

娘が事故に遭った。要領を得ない息子からの電話を受け、私は秋の夕暮れの中、宇都宮駐屯地から、さくら市まで車を走らせている。
 制限速度を超えそうになると、自然と速度を緩めてしまう。何十年にも渡って染みついた習性にため息をつく。そういえば妻が危篤の時もそうだった。心は焦り、はやるのに体は冷静だった。結局、死に目には間に合わず、冷たくなった妻に肝心なことを聞けなかった。
「君は、幸せだったのか……」
 自衛官の妻というのは気が休まる暇がない。海外派遣や演習中、妻は大好きな酒を断(た)っていた。妻と出逢い過ごした二十年近くの人生、私は幸せだった。一男二女を授かり、さらに幸せになろうとした矢先、妻は事故死した。この上、娘を失っては――。右足を強く踏む。
「心配しすぎなんだよ、お父さんは……」
 長女の愛海(あいか)の明るい声が、病室に広がる。
写真を撮ろうとお丸山公園に登ったら、崖から落ちたそうだ。「かすり傷ですむなんて、超ラッキー。天使が護ってくれたのかな」
「何言ってんだよ。俺のデジカメ、レンズに傷が付いちゃったよ。弁償してくれよ」
 長男の陸夫(りくお)が情けない声を出す。
「撮った写真が無事なんだから、大丈夫」
 さくら市で天使をテーマにしたフォトコンテストを実施しているらしい。締め切りが今週一杯なので、焦って撮りにいったようだ。
「お姉ちゃんの写真、結構、いいよ」
 末っ子の美空(みそら)の声に、デジカメの履歴を見る。愛海が不安げに私を見つめてくる。これでも私は、自衛隊で長らく写真陸曹を任じられてきた。一枚一枚、娘の撮った写真を見ていく。多くの写真に、秋の空と小さなかわいらしい天使像が写っている。色とりどりの天使の羽を背景にした美空の写真もあった。
「あ、それ、氏家(うじいえ)の駅前、お姉ちゃんが、撮れって……」美空は恥ずかしげにうつむく。
 かわいらしい高校生の娘の姿に頬が緩むが、もう十七年かと心の中でため息をつく。美空を産んで妻は亡くなったので、美空の年齢と、妻のいない私の独りの時間は同じだ。
 最後の一枚を見て眉根を寄せた。天使と川と若かった私たち夫婦の写真が、映っていた。
「あ、それ、お丸山の天使と荒川と内川の合流点を同時に見ると幸せになれるからって」
 この写真を撮るために無理な姿勢になり、崖から落ちたそうだ。私は息をはいた――。
 今日は忘年会だったので、車ではなく電車だ。氏家駅で降りたら、あいにくの雨で、タクシーも見えない。愛海に迎えにきてもらう。
 愛海は、先日のコンテストであの写真が入賞し、もらった賞品のニッカのウイスキーを誇らしげに私に差し出して、にやりとした。
「呑むと天使が願いをかなえてくれるかも」 その晩、呑みながら願ったことはただ一つ。
 視界の隅に、きれいな天使の羽が目に入る。近づくと野口雨情の詩が書かれていた。
 わたしの胸の恋の火は いつになつたら消えるでせう 竈(かまど)の土は樺(かば)色の 焔(ほのお)に燃えてをりました 君はたしかに夕暮の 野に咲く花の露でせう 土蔵の壁に相(あい)合(あい)の 傘にかかれてありました。
 傘が差し出される。振り向くと妻が立っていた。周りには小さな天使が舞っている。
「お、お前……」妻の差し出した傘を握ると、妻はそっと体を寄せてくる。懐かしい匂いだ。
「あなた、私は幸せでしたよ……。あなたが幸せを感じるとき、私も幸せなの……」
 クラクションの音に目の前の光景が消える。
「お父さん、何で女性用の傘を差してるの」
 愛海の疑念の声に、私は頬を緩める。
「愛海、帰ったら一杯やるか――」